煽り運転
煽り運転は確かに危険であるため、事故を起こした時の厳罰化は必要。しかし、報道を見ていると、ドライブレコーダーを普及させようという意図が見え隠れしている。煽り運転が原因の事故報道を見た人は、もしもの時の証拠固めとしてレコーダーをつける必要性を感じているかもしれない。
今後もし多くの人がドライブレコーダーを設置することになれば、お互いを監視しあう「最善は最悪」の世に中になってしまう。運転マナー(法)=社会善を守らないヤツが悪い。公ではなく、市民が法に基づいて市民を監視する社会。つまり、善意の押しつけを誰もが行う世の中。
今の日本はそんな社会へと変わろうとしている。
市民が市民を監視するようになれば、法がマニュアル化され法に明記されていないことは何もできないということも意味する。一億総不能化社会である。
これは戦前の日本の全体主義とは違う。あくまで、個人の尊重という近代の芽生えに即した全体主義である。つまり、個々人が気持ちよく日々の生活を送ることができるように個人は振る舞うべき(我ー汝の関係性)とする近代を超える価値観(ポストモダン)による全体主義(ポストモダン・ファシズム)だ。こうした現象は北欧の福祉先進国では表面化している。
では、どうしたらいいのか。煽り運転の問題に関して言えば車の仕組み、道路の仕組みを変えればいい。例えば、日本は道が狭い場所が多いため、車体サイズを縮小する。一定の間隔を保てるように自動ブレーキをつける。最高速度を80キロ程度しか出せないようにする。などなどいろいろある。最も効果的なのは公共交通を充実させること。これによって自動車の数を劇的に減らすことができるはずだ。
法によって人々の生活行為(プラチック)を変えることはできない。ちょっと仕組みを変えることで人々の生活実践(プラクシス)に変化を加えることが最も効果的なはず。そうすれば、人々の生活行為も自ずと変わるからだ。
認識のズレ
日本の社会運動の発展は一体どこが契機なのかを考えると、まぎれもなく3・11東日本大震災であろうと思います。しかし、共産党をはじめとする革新系勢力では「集団的自衛権の行使容認」が契機とされます。
この認識の違いは大きい。
原発事故によって多くの人が自分たちのこれまでのライフスタイルを何らかの形で見直すことになった、もしくは意識するようになった。商品市場を見てもオーガニック製品や環境に配慮したものが増えている。
しかし、革新系勢力ではそんなことは基本的に考慮されない。共産党は脱原発と言っていますが、根底には原発は科学技術の発展の象徴とする考えがあるのだと思う。
人々の実際の暮らし方から社会問題を考えるのか、自分たちの要求(願望)から社会問題を考えるのかの違いです。
政治と暮らしを切り離して考えることはできない。しかし、現在の市民共同を見ていると、切り離すなと言いながら、分離思考に陥っている。
野党共闘に対する不信感と革新派が多数派を形成できなのは、暮らしの視点がすっぽりと抜け落ちてしまっているからではないか。
相も変わらず進む「学校化」
NHKの地球ドラマチック「世界の果ての通学路」を視聴しました。
ペルーの高山地帯で暮らす男の子、ルーマニアの森の中で暮らす女の子、フィリピン・マニラのスラム街で暮らす女の子。それぞれ、将来への希望を抱いて学校へ行っている。今回の番組は、この子たちの通学を追ったドキュメントです。
普通の人は、世界には長い時間かけて学校に通わざるを得ない貧しい子どもたちがいるんだ。ユニセフに寄付したりして、支援しようとなる。
しかし、僕は全く共感できない。象徴的な理由として、ルーマニアの女の子は学校に行く理由として、「何も知らない子と思われたくない」と語っていたことがあります。
実際には逆で彼女は山の中で暮らしていく術を知っている。野菜の栽培方法、山菜の知識、山の気候などたくさんのことを知っている。
ペルーの山間部で暮らす男の子は、羊・アルパカの世話の仕方、毛の刈り方、チーズの作り方、小屋の作り方を知っている。
都市部で暮らす人たちはそんなこと全然知らない。もし、山の中で暮らすことになれば途方に暮れてしまうでしょう。本当に何も知らないのは都市部でゆき届いた教育を受けている子どもたちの方なのです。
そして、ルーマニア、ペルー、フィリピンの子どもたちを並列的に語ることはできない。なぜなら、フィリピンのスラム街とは国が産業様式の発展を目指す過程で逆生産的に生み出されたものだからです。
都市の中にある貧困街で暮らす子どもたちにとっては教育とはまぎれもなく希望です。なぜなら、都市部で生きていくためには教育が無くてはならないからです。
僕自身、野菜の栽培方法を知らない、牛の飼い方、小屋の立て方、ひもの結び方、山菜の種類も何も知らない。季節の移り変わりもわからない。それなのに、都市に住んでいるからのうのうと暮らすことができる。
教育は都市部で生きる(他に生きるすべを持たない)僕のような者にこそ必要なのです。
日本人の議論下手はどこから
日本人は議論が下手だとよく言われます。僕もそうだなと思うことはよくあります。何のために議論してるのだろう?と疑問感じる会に遭遇することが多すぎるくらいです。
そもそも、日常的に意見表明をする機会が少なすぎるのが日本です。根本はお金=資本に対する感覚に問題があると思う。
『吉野家で無料牛丼に人が殺到して、バイト君が疲れ果ててもし接客や提供面でミスを犯したらたぶんお客さんは怒るんだと思う。
無料だからいっか…とはならない。
美容室もカットカラーして3000円とかってサロンも最近めちゃくちゃ増えてきたけど、お客さんはかつて払ってた10000円の美容室と同じ良いサービスを期待する。
「安いからこれくらいで良いでしょ」がこの国では通用しない。
消費者はなぜか【値段が安い=サービスの質が低い】ではなく、値段に関係なくそれなりに良い物が手に入ると思ってるフシがある。』
日本が貧しくて萎える。先進国から「安い国」と言われるこの国の未来は…。ミスド大行列に思うこと。 | 桑原淳 旅人美容師の1000人ヘアカット世界一周の旅より。
とても共感するところです。安くても顧客満足度が高いというのはサービスを追求するから起こることです。ホスピタリティを追求すれば、客によって個々違うということになります。
サービスではあらかじめ商品そのものに対する価格は決まっている。吉野家ではメニューに牛丼幾らと価格が表示されています。そのため、客は安心して(支払金額を気にすることなく)商品を購入することができます。一方、ホスピタリティは、個々に応じて対応が変わってくるため、商品そのものの金額は決まっていたとしても、総支払額はいくらになるかわからない。
この時、店主と客の間に生じるコミュニケーションにも違いが生じることになります。サービスの場合はパック化されているためそれ以上でも以下でもダメ。店主と客のやりとりは金銭の受け渡しのみです。しかし、ホスピタリティはパック化されたものはないため、お互いどうしたらいいのか、どうして欲しいのかの会話が発生します。客は自分の望みを正確に伝えることができないといけない。店主は客の要望をしっかりと読み取ることが求められます。
つまり、サービスであれば自分で考える必要はなく、自分を商品に合わせていけばいい。ホスピタリティは商品を自分に合わせることになります。
職人と呼ばれる人たちがたくさんいた時代の日本人というのは、商品に対するこだわりが強く、質のよいものを求めていました。値段はその分高くなりますが。ところが、規格品が普及したことで職人は衰退。労働者の賃金も低下している今、質のよいものが欲しくても手に入れることは多くの日本人にとって困難です。そうこうするうちに、何がよいものであるのかすらわからなくなってしまったのではないだろうか。
自分の意見を主張したり、こだわりを生活品に持ち込むことを日本人がどこかで煩わしく感じていたとしたら、金銭のやりとりだけで生活を解決できるとなるサービスの普及は当然の帰結なのかもしれない。
今の日本では、最低賃金は1000円以下。これでは到底満足な暮らしができるわけなどない。賃金が低いならそれなりの労働でいいのかというとそんなことは許されない。安くても契約した以上は成果を求められます。
今の給料で何とかやっていけるので満足していますというのは、本当に何とかやっていけているレベルにすぎず、本来はそこに満足してはいけない。マルクス主義者は経済が文化を生むのだと規定します。しかし、本当は逆で文化が経済を生むのです。経済活動は文化の一部です。
経済資本のみが追及される日本では文化は2の次にされてしまう。それではいけない。国民一人ひとりの文化資本度を高めないといけないのですが、そのためにも文化を愉しむだけの時間的ゆとり(労働時間の短縮)と金銭的余裕(最賃1500円以上、賃上げ)がないといけない。
新しい労働運動の提唱に向けて
7月11日、おかやまいっぽんの市民政策(経済・労働)についてあれこれと議論。基本的に話の通じる人たちとの議論なので言いたいことは言えた感があります。
結局のところ僕たちは、どんなに時代が変わろうとも再分配を巡って争っているにすぎないのかもしれない。
僕は再分配を制度プラクシスとしてとらえ、商品によって人々の関係性が規定されている物象化の状況にあるのが今の労働者の置かれている状況だと考えています。
労働組合は入って当たり前、メリット・デメリットではない、賃金は生計費が原則、搾取されているというように権利の問題として目的意識的に要求活動していくのがプラクシス。
しかし、労働者は単に商品を作り、労働力の対価として賃金を得ているのではない。実際には労働することで社会維持の役割を果たしている。このように意識するしないに関係なく実際に行われているのがプラチック。
ハンナ・アレントの労働と仕事の違いと山哲のプラチック論から考えてみました。
問題は、労働者一人ひとりが働くことを通じて社会とのつながりに気づくにはどうしたらいいのか。これがアレントのactに該当するのだと思う。
どうしても、文化資本に行きついてしまう。まだまだ、この2つが理解しきれない。山哲を読み始めたばかりのころはプラクシスとプラチックの違いにかなり戸惑いましたが、今ではだいぶん自分の言葉として使えるようになりました。
しかし、文化資本はまだまだ。ピエール・ブリュデューの文化資本は、「個人の中に蓄積した文化資本が、結局その個人の将来の学歴、地位、収入などを決めるようになる」というもの。でも、山哲のいう文化資本はなんだか違う。
それがわかったとき、全く新しい労働運動を提唱できるような気がする。
「個性」(2016.6.23)
はじめに
労働者が資本家になることはできない。しかし、才能(タレント)が備わった存在であり、資本を活用することでその才能を労働力として発揮する資本者となることはできる。しかし、産業経済社会の中にあっては、個性・卓越性を発揮することは許されない。なぜなら近代産業は画一化/均一化された商品を生産し消費者もそれを求めていると考えるからだ。
1.団体交渉はなぜ成立するのか
建築家の山本理顕氏はハンナ・アレントの『人間の条件』を参照しながら以下のように述べている。
『世界は産業革命による労働生産性の驚異的な増大によって、その特質が失われていった。仕事と労働の区別がなくなって、全ての人が賃労働による労働者とみなされるようになったからである。労働者は消費される商品をつくり、そして一方でただそれを消費する消費者である。そして自分自身が市場社会の商品である。「経済的に組織された社会」(金銭を唯一の価値とする社会)という空間の住民である。そして、金銭的な価値(利潤)を拡大するためには社会はどこまでも広がらなくてはならない。』(『権力の空間/空間の権力』)
仕事と労働の区別がなくなったのは産業革命以降、分業生産が確立されたためだ。この生産システムによって労働者の生産性は飛躍的に上昇することになる。そして、分業システムの下では、対価は個性や卓越性に対して支払われるのではなく、均一な商品を生産することに対して支払われる。分業生産の下では熟練度は必要とされない。ある程度の訓練を重ねることで品質を維持することができるからだ。そのため、賃金は時間給(金銭)で支払われている。それが賃労働(者)である。
そもそも、仕事とは文化そのものを生産することをいう。例えば、化粧品を考えてみてほしい。化粧品が売れるのは、化粧品そのものを求めるからではなく、化粧品によってもたらされる「美」を求めるからだ。そして「美」に対する価値観は国や文化によって違う。これに対して労働は商品を生産する。商品は消費されるにすぎず、歴史的に継承されていくようなものではない。いつでもどこでも自由に生産・消費活動を行うためには、個性は非効率とされる。各々の個性が維持される土地固有の文化・生活圏という「世界(場所)」は均一な商品生産過程で失われ、「社会」が広がっていく。
賃労働の世界では個々人の抱える事情・才能は一切考慮されない。賃金額を決定するとき、様々な事情から労働者によって生活費は違ってくる。しかし、そうした個人の事情に配慮して賃金が決められることはない。顧客に対しても別々の対応をすることはいけないこととされる。それらはすべて、不平等であるとみなされるのだ。
労働組合で団体交渉が成立するのは、賃労働者として画一・均一の者として社会に存在しているからに他ならない。仮に、個性や卓越性に対して賃金が支払われるのだとしたら、全ての労働者の賃金を一律に引き上げるベースアップ、最低賃金は成り立たない。
一応断っておくと、私たちが利便性の確保された生活ができるのは、社会化されているからである。
2.賃労働者と学校化
社会を形成することは人々を善導し貧困・格差を是正することや誰もが人間らしいまともな生活を営むことが目的とされている。しかし、社会化が過度に進み、個性が非効率とされるならば、人は自分を隠し、自己の内側に閉じこもって生きるしかない。
そのように手段と目的が倒錯した社会では、制度獲得すること(資格、免許、学歴等)が自己実現であると勘違いされ、個性・卓越性を発揮しないこと(自分の意見を表明しない、特定の立場に立たない)が中立であると勘違いされる。顕著な例は学校化であろう。
学校化は学校に行かなと学べない、学校(カリキュラム)を修了しなければ価値がない=社会に受け入れられないという暴力的な形式で支配的・政治的な位置を占めている。学校化は個性を認めない。全員が同時的に同じ教科書で学び、同じテストを受ける。中学生ともなれば制服が支給され、服装すらも成績評価の対象とされる。子どもによって得意分野も性格も違う。それなのに全員を「生徒」とみなしている。それに反発することは非行とみなされ、更生の対象とされるのだ。何のためにこのようなことが行われるのかというと、経済システムが生産物の生産を行うことと並行して、生産物を生産する「生産者」を生産するためである。
キェルケゴールはこうした状態を悪魔的と表現した。キェルケゴールにとって、自己を外に向けて開いていることが善であり救いに至る道だった。
『キリスト教的な英雄的精神(おそらくこれはごく稀にしか見いだされないものであるが)とは<人間が全く彼自身であろうとあえてすること、一人の個体的な人間、この特定の個体的人間としてあろうとあえてすることである、―かかる巨大な努力をひとりでなし、またかかる巨大な責任をひとりで担いながら、神の前にただひとりで立つこと>である。』(『死に至る病』)
キェルケゴールを理解するキーワードに「単独者」がある。上記一文は単独者について端的に表している。重要なのは、「人間が全く彼自身であろうとあえてすること、一人の個体的な人間、この特定の個体的人間としてあろうとあえてすること」だ。これこそ単独者の真髄である。しかし、単独者には一人でなることはできない。自分自身を認識するには他者の存在が不可欠だ。そのことをキェルケゴールは「人間とは総合」であると述べている。人は他者の中にあってこそ他者とは異なる自分を発揮することができる。単独者とは自らの卓越性を示すことをしなければ存在を維持できないのだ。
賃労働者は単独者と違い、誰に対しても同じサービス、同じ商品という画一・均質化された商品社会を生産する。一人ひとりのもつ独自性(持ち味)を発揮させるためには賃労働ではなく、憲法に明記されている「個人としての尊重」をこそ求めないといけない。
3.個性が尊重される労働を
何らかの理由で賃金を上げてもらいたいと思う労働者が複数いて団体交渉になるわけだが、要求の背景は千差万別で、なぜ1万円のベースアップが必要なのかはプライベートなことであり個人によって違う。しかし、その事情は個人のプライバシーであり公開してはいけない領域とされる。この時、人は自身を公開し、他者から見られ聞かれる権利が侵害されているのではないだろうか。
プライベートというのは何ものにも干渉されることなく個性を発揮できる領域で、それを保障するのが公共空間だ。労働組合が公共としての役割を果たすとき、強大な資本主義構造に楔を打ち込んでいくことができる。具体的には、私たち一人ひとりがタレントを備えた存在であるという自覚を持つことだ。その時、労働者は資本者となることができるのだが、資本に対する考え方が誤認されているためなかなか視座が拓けない。
大企業のため込んだ内部留保は300兆円を越えたと言われる。この莫大な金額は、賃金の引下げ、非正規雇用の拡大によって積み上げられた結果であり、決して経営(ビジネス)の結果ではない。このような事態は資本の捉え方を誤っていることに要因がある。
ここでは「資本=資金(金銭)」であると考えられている。実際には資金や財貨は商品として物化された結果であり、資金だけが資本であるわけではない。本来は社会関係、自然環境、文化、土地までも資本となり、資金のように、個人所有できるものだけではない。こうした誤認に企業人だけでなく労働者までも陥っている。
資本とは一つの能力・技能であり創造的なパワーそのものだ。それは人や場所によって違い、換金できるものではない。私たちは資金・財貨など経済資本の助けによって、自らの資本を活用して創造活動を行い、暮らしに役立てることができる。
3・11以降、日本は急速に変わってきた。政治の強権化という形式が目立っているが、個性の主張を求める動きも強まっている。こうした変化に労働組合に結集している労働者がどう対応していくのかが問われているのだと思う。労働組合として憲法を守れ、活かせと主張するならば、労働者の個性・卓越性を保障していかないといけない。
まとめ
山本理顕氏の言葉を再び借りてまとめとする。『私たち(労働者)は賃労働者として、「他人によって見られ聞かれる」権利を奪われ、この世界に「存在していたという痕跡をなに一つ残すことなく去らなければならない」。それが社会という空間である。でも、その「社会」の中にあっても、それでも、私たち(労働者)は、「何らかのかたちで」自分は「万人の中の最良の者であること」を示したいと思いっている。実際の私たちは労働力を時間で売る労働者などでは決してない。単なる賃労働者などでは決してないのである。』(同上)