労働文化研究院

思考の過程と飛躍の記録

新しい労働運動の提唱に向けて

7月11日、おかやまいっぽんの市民政策(経済・労働)についてあれこれと議論。基本的に話の通じる人たちとの議論なので言いたいことは言えた感があります。

結局のところ僕たちは、どんなに時代が変わろうとも再分配を巡って争っているにすぎないのかもしれない。

僕は再分配を制度プラクシスとしてとらえ、商品によって人々の関係性が規定されている物象化の状況にあるのが今の労働者の置かれている状況だと考えています。

労働組合は入って当たり前、メリット・デメリットではない、賃金は生計費が原則、搾取されているというように権利の問題として目的意識的に要求活動していくのがプラクシス。

しかし、労働者は単に商品を作り、労働力の対価として賃金を得ているのではない。実際には労働することで社会維持の役割を果たしている。このように意識するしないに関係なく実際に行われているのがプラチック。

ハンナ・アレントの労働と仕事の違いと山哲のプラチック論から考えてみました。

問題は、労働者一人ひとりが働くことを通じて社会とのつながりに気づくにはどうしたらいいのか。これがアレントのactに該当するのだと思う。

どうしても、文化資本に行きついてしまう。まだまだ、この2つが理解しきれない。山哲を読み始めたばかりのころはプラクシスとプラチックの違いにかなり戸惑いましたが、今ではだいぶん自分の言葉として使えるようになりました。

しかし、文化資本はまだまだ。ピエール・ブリュデューの文化資本は、「個人の中に蓄積した文化資本が、結局その個人の将来の学歴、地位、収入などを決めるようになる」というもの。でも、山哲のいう文化資本はなんだか違う。

それがわかったとき、全く新しい労働運動を提唱できるような気がする。