労働文化研究院

思考の過程と飛躍の記録

日常に潜む不能化

ある小学校の前を通る際、交差点に毎朝交通安全のために高齢者もしくは教員が立っています。それ自体は問題ないのですが、僕がおかしいと感じるのは当該の生徒が横断するときにしか黄色い旗を持って横断者がいることを示さないことです。

生徒以外は完全にスルーです。その学校は制服がないので、制服を着用した別の学校の生徒が横断しているときも同じくスルーです。そのため、生徒が渡り切ればさっさと旗をどけるため、ドライバーも他の横断者も困惑し、かえって事故を誘発する危険事態を生んでいます。

また、昨年の出来事ですが、僕の目の前で車と自転車に乗った中学生が接触事故を起こしたことがあります。その時、交通安全のために立っている教員は、明らかに違う学校の生徒だったからスルーしました。

こういう社会事象はどう考えてもおかしい。当該の交通安全委員も教員も自分に課されたルールを遂行しているだけで、実際=事故を未然に防ぐことが見えなくなっている。

他校の生徒だから事故をしても知らないというのは、森友疑惑と同じでルールの範囲内で違法がまかり通るという構造と同じ心象です。自分は自分の所属する学校の生徒の安全を守ることが務めであり、それ以外は責任はないという心理です。

しかし、実際には自分の目の前で事故は起きているのであり、せめて駆け寄って、どうしたらいいかわからないでいた中学生を援助すべきだったはず。

こうした社会事象をおかしいと思い、何とか変えていかないとと本気で考える人はどれくらいいるだろうか。日常の何気ない出来事、それとも、そういう仕事なのだから仕方ないのだろうか。

こういう辺りに政治の腐敗がまかり通る原因があるように思えてならない。