労働文化研究院

思考の過程と飛躍の記録

学校化に抗して

僕はよく、教育に対して厳しすぎると指摘されます。基本的に僕の教育に対する考えの支えはイリイチの「脱学校論」なのでどうしてもそう思われても仕方ない。

しかし、どんなに学校とは政治装置であるといったところで学校をなくすことはできない。なぜなら、社会が学校(教育)を求めているからでです。言い方を変えれば、99.9%の人たちは学校のない社会を想像することすらできないからです。

社会そのものが学校を前提としているのです。これをイリイチ山本哲士さんは「社会の学校化」であると批判します。学校をなくすということは今の社会を全否定することにもなる。

だから、学校のない社会を考えることができないにしても、多くの人は社会を全否定することに危険性を本能的に察知し、嫌悪感を感じるのでしょう。

では、学校のない途上国の人々は不幸なのか。学校に行かなければ幸福にはなれないのかと言えばそんなことはない。でもそれは、学校というものの存在を知らない限りにおててです。知ってしまえば、学校/教育=先進国の基準の有無で自他を比較することになってしまうからです。

こうしなければいけないと考えて人々を善導することもまた学校化。結局のところ僕たちにできるのは、よりましな社会、よりましな平和、そしてよりましな暮らしを作ることでしかない。

保育を考えてみると、学校がいかに政治装置であるかが見えてきます。学校教育法(幼稚園)で先に議論されたことが、児童福祉法(保育園)に反映されるのが現行法上の仕組みです。福祉(社会保障)が先にあって後から教育とはならない。

以前、大学の保育学科に所属する専門家の講演を聴きましたが、この部分は「法律だから仕方ない」で片づけられてしまった。仕組みを変えるよりも、今ある仕組みの中でいかにに工夫するかだとされてしまう。

福祉が第一義とされる社会と教育が第一義とされる社会では人々の思考と行動には大きな違いが生まれる。そこを無視して安易に今の仕組みの中で工夫しましょうと言うことには意味ないのではないだろうか。
福祉=保育の基本原理は子どもが本来備えている力を最大限に発揮できるようにすることです。この原理がないと、教育は単なる押し付けに/強制/単一化になる。実際には保育と福祉はつながっている。箸のようなものです。箸が一本では使えないのと同じように、保育だけではいけないし教育だけでもいけない。

教育と福祉はちがう領域のように思われ、実際に違うということを前提にした法運営がされています。だから、学童保育のように行政による半ば見て見ぬふり状態が発生する。本当は教育も福祉の一部であり、出発点は福祉であるべき。

教育は福祉だと考えれば、過剰なまでの教育投資はされなくなるだろうし、福祉が先に立てば労働も大きく変わってくる。