労働文化研究院

思考の過程と飛躍の記録

雇用身分

ある会合で、働き方を考えるワークショップについて話し合う。参加者の職種は様々だが、みんなこぞって生産性向上を訴える。非常に危機感を覚える。

そもそも、生産性とは何なのだろうか。生産性だけで評価をするなら、生産性の低い人は排除されてしまう。しかし、生産性の低い人の穴埋めを生産性の高い人がしているという現実があることも否定できない。

政府の働き方改革では、長時間労働の削減が謳われており、その手段として生産性を向上させることが必要だと言われる。

生産性の向上にはどう考えても限界がある。どんな人でも訓練によって一定程度の生産性を維持することはできる。そこからさらに生産性を高めようとすると、業務量を増やす、もしくは、新しい業務を与えることになると思う。それを積み重ねることが生産性の向上であり、業務が減ることは永遠とない。

普通の企業は、一部のハイ・パフォーマーとそうでない普通の労働者がいるが、すべてをゼロから始めるベンチャーなどは、ハイ・パフォーマーだけで組織を構成することが可能。しかし、例えば、保育園経営に対してベンチャー保育園と言わないように、すべての事業形態がベンチャーになるわけではない。

政府はそうした現実を知ってか知らずか、ハイ・パフォーマー(正社員)とそれ以外は非正規(流動型雇用形態)に二分する政策を進めている。それはさしずめ、森岡孝二氏の『雇用身分社会』のようなもので、日本では雇用形態が身分(階級)そのものになるということ。

そうした社会は、働き方に関しては非常に自由度の高いものになる。一つの職場に縛られる必要がないため、与えられた業務をこなしさえすれば後の時間は好きなことができる。無論、すべての人にそのような自由度の高い働き方ができるわけではない。セーフティネットがなければ、仕事のできる人にばかり仕事が集中する超競争社会になってしまう。

新自由主義的な経営観を持つ人たちがベーシック・インカムを提唱するのはこうした背景があるのではないだろうか。

これから増々労働者の働き方は社会とのつながりが希薄になっていくと思う。そこをどうやって変えるか。これは真剣に考えないといけない。労働者の労働または作り出すモノがいかに社会につながっているのか。その社会的意味とは何か。

この点を追求することがCSRやSDGs、CSVになる。賃金・労働条件だけを要求する労働運動ではもはや何も変えていけない。上記3点はすべて人権が基本であり、低賃金労働者や貧困を生み出さないことは企業の第一義の社会的責任である。

日本国内における劣悪な労働環境の氾濫は、人権の視点が欠如しているからであると同時に、『雇用身分』意識が醸成されているからに違いない。保守派がいう自己責任論では説明ができない。

日本では、ひとたび劣悪な労働に就いた時点で、その人の社会的身分が決まり、差別意識が生まれる。だからこそ、弱い立場にある労働者は団結しないといけないのだが、野党共闘に象徴されるように組織というのは自分の意思で選んで参加するものに変わってしまったことから、団結することも困難になっている。