労働文化研究院

思考の過程と飛躍の記録

「個性」(2016.6.23)

はじめに

 労働者が資本家になることはできない。しかし、才能(タレント)が備わった存在であり、資本を活用することでその才能を労働力として発揮する資本者となることはできる。しかし、産業経済社会の中にあっては、個性・卓越性を発揮することは許されない。なぜなら近代産業は画一化/均一化された商品を生産し消費者もそれを求めていると考えるからだ。

 

1.団体交渉はなぜ成立するのか

 建築家の山本理顕氏はハンナ・アレントの『人間の条件』を参照しながら以下のように述べている。

『世界は産業革命による労働生産性の驚異的な増大によって、その特質が失われていった。仕事と労働の区別がなくなって、全ての人が賃労働による労働者とみなされるようになったからである。労働者は消費される商品をつくり、そして一方でただそれを消費する消費者である。そして自分自身が市場社会の商品である。「経済的に組織された社会」(金銭を唯一の価値とする社会)という空間の住民である。そして、金銭的な価値(利潤)を拡大するためには社会はどこまでも広がらなくてはならない。』(『権力の空間/空間の権力』)

 仕事と労働の区別がなくなったのは産業革命以降、分業生産が確立されたためだ。この生産システムによって労働者の生産性は飛躍的に上昇することになる。そして、分業システムの下では、対価は個性や卓越性に対して支払われるのではなく、均一な商品を生産することに対して支払われる。分業生産の下では熟練度は必要とされない。ある程度の訓練を重ねることで品質を維持することができるからだ。そのため、賃金は時間給(金銭)で支払われている。それが賃労働(者)である。

 そもそも、仕事とは文化そのものを生産することをいう。例えば、化粧品を考えてみてほしい。化粧品が売れるのは、化粧品そのものを求めるからではなく、化粧品によってもたらされる「美」を求めるからだ。そして「美」に対する価値観は国や文化によって違う。これに対して労働は商品を生産する。商品は消費されるにすぎず、歴史的に継承されていくようなものではない。いつでもどこでも自由に生産・消費活動を行うためには、個性は非効率とされる。各々の個性が維持される土地固有の文化・生活圏という「世界(場所)」は均一な商品生産過程で失われ、「社会」が広がっていく。

 賃労働の世界では個々人の抱える事情・才能は一切考慮されない。賃金額を決定するとき、様々な事情から労働者によって生活費は違ってくる。しかし、そうした個人の事情に配慮して賃金が決められることはない。顧客に対しても別々の対応をすることはいけないこととされる。それらはすべて、不平等であるとみなされるのだ。

 労働組合で団体交渉が成立するのは、賃労働者として画一・均一の者として社会に存在しているからに他ならない。仮に、個性や卓越性に対して賃金が支払われるのだとしたら、全ての労働者の賃金を一律に引き上げるベースアップ、最低賃金は成り立たない。

 一応断っておくと、私たちが利便性の確保された生活ができるのは、社会化されているからである。

 

2.賃労働者と学校化

 社会を形成することは人々を善導し貧困・格差を是正することや誰もが人間らしいまともな生活を営むことが目的とされている。しかし、社会化が過度に進み、個性が非効率とされるならば、人は自分を隠し、自己の内側に閉じこもって生きるしかない。

 そのように手段と目的が倒錯した社会では、制度獲得すること(資格、免許、学歴等)が自己実現であると勘違いされ、個性・卓越性を発揮しないこと(自分の意見を表明しない、特定の立場に立たない)が中立であると勘違いされる。顕著な例は学校化であろう。

 学校化は学校に行かなと学べない、学校(カリキュラム)を修了しなければ価値がない=社会に受け入れられないという暴力的な形式で支配的・政治的な位置を占めている。学校化は個性を認めない。全員が同時的に同じ教科書で学び、同じテストを受ける。中学生ともなれば制服が支給され、服装すらも成績評価の対象とされる。子どもによって得意分野も性格も違う。それなのに全員を「生徒」とみなしている。それに反発することは非行とみなされ、更生の対象とされるのだ。何のためにこのようなことが行われるのかというと、経済システムが生産物の生産を行うことと並行して、生産物を生産する「生産者」を生産するためである。

 キェルケゴールはこうした状態を悪魔的と表現した。キェルケゴールにとって、自己を外に向けて開いていることが善であり救いに至る道だった。

キリスト教的な英雄的精神(おそらくこれはごく稀にしか見いだされないものであるが)とは<人間が全く彼自身であろうとあえてすること、一人の個体的な人間、この特定の個体的人間としてあろうとあえてすることである、―かかる巨大な努力をひとりでなし、またかかる巨大な責任をひとりで担いながら、神の前にただひとりで立つこと>である。』(『死に至る病』)

 キェルケゴールを理解するキーワードに「単独者」がある。上記一文は単独者について端的に表している。重要なのは、「人間が全く彼自身であろうとあえてすること、一人の個体的な人間、この特定の個体的人間としてあろうとあえてすること」だ。これこそ単独者の真髄である。しかし、単独者には一人でなることはできない。自分自身を認識するには他者の存在が不可欠だ。そのことをキェルケゴールは「人間とは総合」であると述べている。人は他者の中にあってこそ他者とは異なる自分を発揮することができる。単独者とは自らの卓越性を示すことをしなければ存在を維持できないのだ。

 賃労働者は単独者と違い、誰に対しても同じサービス、同じ商品という画一・均質化された商品社会を生産する。一人ひとりのもつ独自性(持ち味)を発揮させるためには賃労働ではなく、憲法に明記されている「個人としての尊重」をこそ求めないといけない。

 

3.個性が尊重される労働を

 何らかの理由で賃金を上げてもらいたいと思う労働者が複数いて団体交渉になるわけだが、要求の背景は千差万別で、なぜ1万円のベースアップが必要なのかはプライベートなことであり個人によって違う。しかし、その事情は個人のプライバシーであり公開してはいけない領域とされる。この時、人は自身を公開し、他者から見られ聞かれる権利が侵害されているのではないだろうか。

 プライベートというのは何ものにも干渉されることなく個性を発揮できる領域で、それを保障するのが公共空間だ。労働組合が公共としての役割を果たすとき、強大な資本主義構造に楔を打ち込んでいくことができる。具体的には、私たち一人ひとりがタレントを備えた存在であるという自覚を持つことだ。その時、労働者は資本者となることができるのだが、資本に対する考え方が誤認されているためなかなか視座が拓けない。

 大企業のため込んだ内部留保は300兆円を越えたと言われる。この莫大な金額は、賃金の引下げ、非正規雇用の拡大によって積み上げられた結果であり、決して経営(ビジネス)の結果ではない。このような事態は資本の捉え方を誤っていることに要因がある。

ここでは「資本=資金(金銭)」であると考えられている。実際には資金や財貨は商品として物化された結果であり、資金だけが資本であるわけではない。本来は社会関係、自然環境、文化、土地までも資本となり、資金のように、個人所有できるものだけではない。こうした誤認に企業人だけでなく労働者までも陥っている。

資本とは一つの能力・技能であり創造的なパワーそのものだ。それは人や場所によって違い、換金できるものではない。私たちは資金・財貨など経済資本の助けによって、自らの資本を活用して創造活動を行い、暮らしに役立てることができる。

 3・11以降、日本は急速に変わってきた。政治の強権化という形式が目立っているが、個性の主張を求める動きも強まっている。こうした変化に労働組合に結集している労働者がどう対応していくのかが問われているのだと思う。労働組合として憲法を守れ、活かせと主張するならば、労働者の個性・卓越性を保障していかないといけない。

 

まとめ

 山本理顕氏の言葉を再び借りてまとめとする。『私たち(労働者)は賃労働者として、「他人によって見られ聞かれる」権利を奪われ、この世界に「存在していたという痕跡をなに一つ残すことなく去らなければならない」。それが社会という空間である。でも、その「社会」の中にあっても、それでも、私たち(労働者)は、「何らかのかたちで」自分は「万人の中の最良の者であること」を示したいと思いっている。実際の私たちは労働力を時間で売る労働者などでは決してない。単なる賃労働者などでは決してないのである。』(同上)