労働文化研究院

思考の過程と飛躍の記録

労働者にとっての労働(2015.11.9)

はじめに

 近年労働の強化が掲げられている。成果主義の導入、非正規労働者への置き換え、残業代ゼロなど企業の利益を最大化するように労働のあり方そのものが失われ、当然労働者は厳しい労働環境で生活苦を強いられることになる。しかし、労働そのものについて考えることは労働組合でもあまりないのではないだろうか。今回の小論が労働の意味合いを考えるヒントになれば幸いである。

 

1.労働の意味

 労働を辞書で引くと、「からだを使って働くこと。特に、収入を得る目的で、からだや知能を使って働くこと」「経済学で、生産に向けられる人間の努力ないし活動。自然に働きかけてこれを変化させ、生産手段や生活手段をつくりだす人間の活動。労働力の使用・消費」とある。

 そして、日本語にはもう一つ勤労という言葉がある。同じく辞書を引くと、「心身を労して仕事にはげむこと」「賃金をもらって一定の仕事に従事すること」とある。

 一般的に、日常会話で「労働」という言葉を使用することは少ないと思われる。例えば、「今日は仕事がある」とは言っても「今日は労働だ」とは言わない。また、行政の発行する文書などには「勤労者」が多用される傾向がある。

 では、労働と勤労はどう違うのだろうか。このことは勤労の本来的意味を考えることで鮮明になる。みなさんは勤労感謝の日をどのように思うだろうか。誰が誰の勤労(労働)に感謝するのかといえば、天皇が臣民の働きに感謝するのが勤労感謝の日だ。もともとは、天皇が五穀の新穀を天神地祇(てんじんちぎ)に進め、自らもこれを食すことで、一年の収穫に感謝する新嘗祭(にいなめさい)に由来している。勤労とは天皇制と密接につながっている。

労働は「自然に働きかけてこれを変化させ、生産手段や生活手段をつくりだす人間の活動」であることから、社会を維持するために必要なのが労働ということになろう。勤労が「天皇=神」のための働きであることに対して、労働は誰のためでもない自らの意思で社会に働きかけていく行為だ。

 マルクス資本論でも労働という言葉が使用されている。英文では「labor」が使用されている。「labor」を辞書で引くと、「(利潤追求の)生産活動、労働(精神・肉体的)、労力、骨折り、苦心、《軍事》(民間人・捕虜の)労務」「(経営者・資本家に対する)労働者(階級)、労働力、労働者」とある。資本論で用いられている労働は「利潤追求型の労働」であり、資本主義社会の性格そのものを指している。そのため、通常日本語で用いる労働とは意味合いが違う。

 なお、英語にはもう一つ労働を指す言葉「work」がある。辞書を引くと、「労働、働き、骨折り、仕事、研究」とある。また、works of charity.(慈善行為。)という語法があることから「神学・道徳的な行為や善行」を意味する場合もある。

以上のように、労働という言葉も一つではなく、その意味するところも多様だ。また、国が違えば労働に対する見方が違ってくる。しかし、唯一共通しているのは労働とは社会的な行為ということではないだろうか。

 勤労という言葉には抵抗を覚えるが、天皇=神のための労働であっとしても目的・成果は明確であり、労働者も「祭り」を通して共に分かち合うことができた。しかし、laborとしての労働は労働者の成果が労働者に還元されることはなく、企業体が利潤を得ることだけが目的とされているため、社会性は欠如している。

 

2.何のための労働か

 労働者は常に労働者であるわけではない。労働者である前に個人として存在している。子どもの前では親であり、サークルの中では仲間であり、友だちの中では友人であるという様々な側面を人間は持っている。それは経営者であっても同じだ。人間にとって労働だけが生活ではない。家族との触れ合い、読書・映画・音楽などの文化に触れること、人間的成長のための勉強、友達や近所との付き合い、旅行など人間の豊かさを味わうことも含めて生活だ。

 多くの労働者が長時間労働によって健全な生活が営めなくされている。例えば、朝8時に出勤し夜20時に帰宅したとすると、自由に使える時間は12時間だ。その内睡眠を8時間とるとしたら残り4時間。すると、4時間以内で食事・洗濯・家族との会話などをしないといけない。睡眠時間を減らし生活時間を確保するという選択もあるが、それでは十分な疲労回復ができず健康リスクが増加する。

 日本の長時間労働は問題視されて久しい。しかし、一向に解決する見通しはなく、むしろより深刻化しているのではないかと思える。労働組合でも労働時間短縮が直接要求となることはない中、生活賃金を守るために残業を肯定的に捉えざるを得ない現実がある。一方で労働者も、「休日が増えてもどうしたらいいのかわからない」「空いた時間を有効に利用してお金を得る方がいい」と労働時間の短縮、余暇の増加に消極的だ。

 長時間労働が解決しない理由は様々な論議がある。低賃金化と社会保障削減による生活不安もあるだろうが、労働によって自分の力で生活を成立させたいという労働者個人の思いが潜んでいる。しかし、生活不安を解消するために労働に依存していくことは自己責任論と変わらないではないか。それはあたかも労働しない者は存在価値がないとでも言っているのかのようだ。それは、生活保護受給者に対するバッシングと同じ構造だ。

社会性の欠如した労働は労働者から多様性を失わせ、文字通り労働する者としてしか考えることができなくする。その考えからは、能力主義成果主義は正当化されることにならざるを得ない。このような労働は極めて暴力的で、平和的立場とは相いれない。

 

3.労働から平和をとらえる視点を

 日本企業の東南アジアへ諸国への進出が活発化している。東南アジアの小国が自立的、近代的な国家を形成するために日本が積極的な援助の姿勢を示した事例は数多くある。しかし、そこには経済格差を背景にした「経済侵略」の意味合いが色濃くある。それはさながら「大東亜共栄圏」が現実に存在しているかのようだ。

少し事例を考える。まずバナナについて。鶴見良行氏が調査した結果、アメリカをはじめとする多国籍企業が傍若無人な収奪を続け、多くのバナナ農園の労働者たちは、奴隷のように過酷な労働を強いられていることが明らかになった。この構造は今でも変わらず、現地労働者は安い賃金で過酷な労働を強いられている。(鶴見良行『バナナと日本人』)

 バナナの日本への輸入は毎年100万トンを超えている、そのうちフィリピンからの輸入が約90%を占めている。私たちは、バナナ農園で働く労働者の人権、環境を破壊することでバナナを食べているのだ。

 バナナだけではない。衣服の代表的な原料であるコットンは、約80%がインドや中国、ウズベキスタンなどの発展途上国で生産されている。日本は80%以上を製品化されたモノの輸入に頼っているのだ。バングラデシュ国内では、400万人を超える人が、洋服の製造に関わっており、給料は1ヶ月あたり平均7000円とされている。近年では児童労働が指摘されてもいる。この他、コーヒーや紅茶、食肉など上げればきりがない。

 ここには「経済格差」という経済に基づいた「力」の論理が働いている。私たちが何気なく行っている経済活動は、民衆の平和で豊かな日常生活を根幹から崩しかねない。だからこそ、私たち労働者は労働を通して平和運動と参加民主主義的なコミュニティー形成に努めないといけない。

 国際政治学者・坂本義和氏は、『平和の問題を意識しない「生活を守る」運動が民衆の健全な生活を守りきることは難しいし、民衆の生活の問題を意識しない「平和」運動は、民衆の平和を守ることなど、おぼつかないだろう。なぜなら、現在の日本の社会構造自体が軍事化の色合いを深めており、このような状況にあっては、個々の民衆が積極的に軍事化を望まなかったとしても、実際に日々の営み(中略)が日本の軍事化を支える働きをする可能性が高くなっている。』(坂本義和編『暴力と平和』)と述べている。

 安保関連法(戦争法)が成立したことによって、日本が再び戦争する国へと変えられようとしている。しかし、日本の軍国化は「経済開発」の名の下でこれまで着々と進められてきていた。

 労働と平和を結び付けて考え、力の論理によって押付けられるものを労働者の団結で排除していかないといけない。それが、職場の民主化であり、具体的に言えば、成果主義能力主義の克服、ブラック企業の撲滅、非正規雇用の規制強化、労働法を徹底していくことである。

 

まとめ

 何のために働くのかというと、最終的には「生活のため」である。しかし、生活を守るための労働によって、生活を破壊されている人がたくさんいる。生活を破壊するものは暴力に他ならない。労働と平和を結び付けて考えることで、新しい労働の方向性を見いだせるのではないだろうか。