労働文化研究院

思考の過程と飛躍の記録

シリーズ・労働者のことばを大切にしよう(2015.5.20)

はじめに

 労働者の中で賃上げを望まない人はいないだろう。一方で、当の労働者の口から「賃上げは雇用を減らす」「経営が成り立たない」などということばも発せられている。これは実に不思議な現象のように感じる。労働者と使用者が分かり合えないことはこれまでさんざん言われてきたが、労働者と労働者も分かり合えない存在となりつつあるのではないか。しかし、それらは永遠に分かり合えないままなのだろうか。そのことを考える。

 

1.分断された労働者

 哲学者の内山節氏は、「労働者が労働者と呼べるのは、労働をとおして労働者が結びつき、労働をとおして共通の意識、共通の言語、共通の行動様式を保有していくときである。そのとき労働者たちは働く仲間であった。労働の共同世界のなかに自分の存在をみつけだしたときに、人間は真の意味で労働者である」(内山節著『戦後日本の労働過程』)と言う。しかし、今の労働者は、非正規雇用の拡大、成果主義制度、長時間労働などによって労働者がバラバラに分断され、互いの労働環境を話し合う機会や仕事以外で関係を持つことが難しくされている。内山氏のいう「真の意味での労働者」には程遠い。

 働く者同士がつながりを取り戻すためには、内山氏のいうところの「共通の言語」で語り合うことから始めないといけない。現代の労働者にはコミュニケーションを深めるという機会が圧倒的に少ないからだ。いくら共通の意識、行動様式があろうとも、ことばがなくてはお互いの共通点(境遇)を認識できない。

労働者が日頃から、お互いの状況を語り合えれば状況は変わってくるのであろうが、企業によって労働者は管理された状況にあるため、管理外で独自につながりを持つことは非常に難しくなっている。

 ブラック企業の手法を見ると、労働者を徹底的に管理していることが見えてくる。今野晴貴氏の『ブラック企業』によれば、意味のない仕事を与えられた労働者が、はじめはおかしいと思いながらも、叱責されることを恐れ仕方なしに長時間働く。しかし、無意味だとわかっていながらも長時間働くことで叱責される恐怖から解放されるので、だんだんと長時間労働をすることが当たり前になる過程が記されている。

 企業が求める人材というのは「文句を言わない労働者」に他ならない。正規雇用では業務に応じてルーティン化された共通の行動様式が生まれ、仕事に対する共通の意識が芽生えやすい。しかし、非正規雇用は職務が明確に決められており、雇用期間も期限がある。また、流動的な労働形態であるため業務がルーティン化しにくく、労働者同士がコミュニケーションをとりにくい。そのため、企業は非正規雇用を増やしたがり、正規雇用に対しては成果主義によって競争を煽りたてるということをする。

 経営者が最も恐れるのは労働者が自主的にコミュニケーションを深め団結し、管理不能に陥ってしまうことだ。「真の意味で労働者」であるためには、経営者による管理の呪縛を解消しないといけない。そのために労働者は共通の言語で語り合い、団結しないといけない。しかし、近年「団結」の意味が失われ、ただのシンボルとして発せられているように思われてならない。

 

2.団結と闘いの意味について

 労働組合では「団結」ということばが大切にされ、ことあるごとに「団結を深めよう」と言われる。しかし、「団結」や「闘争」という言葉に対して「怖い」といった印象を持つ若者が多く、意図的にこうした表現を避ける傾向が生まれている。

「団結」を辞書で引くと、「多くの人が共通の目的のために一つにまとまること」とある。類語として「大同」「連帯」などがあり、「大同」は「『小異を捨てて大同につく』のように大体同じである」場合に用い、「連帯」は「二つ以上のものが結びついていること」を意味し、必ずしも多数ではない。それぞれニュアンスの違いがあるが一つにまとまることを意味している。以上を踏まえて考えると、団結は特定の目的または特定の考えのもとに、多数が強くまとまっていることを指していると思われる。

 また、「団結」は「闘争」と関連して用いられることが多い。労働組合では「~闘争」という言葉に頻繁に出くわす。闘争の「闘(い)」は「武力を行使することなく、困難などを克服すること」を意味しており、武力を用いて相互に争う「戦い」とは異なっている。

 例えば、「春闘」「秋闘」「不当解雇撤回闘争」などの場合、「要求を闘って勝ちとる」ことが示されている。それは、資本主義社会において労働者が声を発することがなければ、状況は良くなることはなく悪くなるばかりだからだ。使用者というのは安い労働力を使い利潤の最大化を目指すもの。それは資本主義社会である以上どうしようもないことだ。昔の労働者はただ黙って使用者の言われるままではなく、打ち壊しなどの抗議活動を経て、ストライキを発見し、働くルールを確立した。過去の労働者の抵抗がなければ、労働時間は未だに12時間を超えているかもしれないのだ。

 労働者は自身に生まれつき備わっている「労働力」以外には何も持っていない。対して使用者(資本家)は資金・土地など莫大な資産を保有している。そのような使用者を相手に労働者は自分たちの要求(願い・希望)を聞き入れてもらわないといけない。労働時間を短縮し、賃金を上げることは利益が減ることになるため、使用者はそう易々と労働者の言う通りにはしてくれない。使用者は圧倒的な力の差を背景に、文句を言う労働者を解雇することもできるのだ。そうなれば、労働者は収入源を失い、路頭に迷うことになる。

 労働者と資本家にある差=困難を克服して要求を実現することが闘い。つまり、労働組合で「闘って要求を勝ちとる」という場合、使用者と直接戦うのではなく、要求実現を阻む困難な状況に打ち勝つことを意味している。

 若者の間で「団結」「闘い」が避けられるのは、「団結」と「闘い」がセットで語られる場合が多いことと、「闘い」が「戦い」と同音であることから要求実現のためには「暴力の行使を辞さない」という印象を与えるためだろう。

 

3.ことばで団結し闘う労働者

 仲間内では話が通じるのに、異なる人たちを相手にすると話が全く通じないということがある。団体交渉において、お互い個人の生活や会社経営のためを思って発言しているのに、使用者側と労働者側の意見は対立する。それはまるで、互いに別の「言語」で会話しているかのようだ。しかし、同じ経営者でも言っていることが理解でき、それはそうだよなと思わず納得させられてしまうこともある。この違いは、人によって事実の解釈が違うということから発生している。

 賃上げ交渉を例に考えてみよう。経営状況を把握するための決算という一年間の業績という事実は変わらないにしても、その読み方によって解釈が変わる。ある企業の利益が1000万円あったとする。その時、労働者側は賃金の引き上げが可能だと解釈し、経営者側は設備投資に使えるお金ができたと解釈する。また、利益の1000万円が企画・営業職の努力の結果と解釈するのか、災害など偶然性の高い要素により需要が増加した結果と解釈するのかというように、事実が一つだとしても解釈は幾通りもある。働いている者で賃上げを望まない者はいないだろう。しかし、どんなに賃上げを望んでいても、賃金が上がらないという事実に対する解釈が違えば、同じ労働者でも「団結して賃上げを実現しよう」ということが理解できない。

 労働者に共通のことばは、労働者同士で事実認識が共有されているときにしか発生しない。労働者ことばとは、働いていく中で感じる不安や恐れ、こうありたいという願いや望みをことばとして発したときに語られる、いわば労働者個人の思いだ。それは詩と同じで、その時と場を共有している者、あるいは経験したことのある者でなければ簡単に理解することはできない。

 労働者に共通のことばで会話することができたとき、団結のスタートラインに立つことができる。しかし、それにはゆとりが必要だ。仕事に追われセカセカした状態では相手のことばの意図を理解することは難しい。また、事実の解釈についてなぜそう考えるのかを丁寧に説明しないといけない。いくら同じ労働者であるといっても、育ってきた環境や興味・関心は大きく異なるからだ。その点を踏まえなければ、ただ不満を述べているだけにしかならない。

 

4.まとめ

 いくら団結が大切だと説いても無関心な人が多い。若い労働者にはなおさらだ。それは、長きにわたる労働運動が自分たちのことばを当然のこととして考え、ことばの意味や思想を丁寧に伝えてこなかったからだろう。

 全労働人口の内、雇われの身として働いている人が90%を占めているはずだ。管理職であろうと広い意味では労働者だ。だとするならば、どこかに共通のことばがあるはずだ。わずかな共通部分を手がかりとしていけば、相手の真意を理解することはできるのではないだろうか。