労働文化研究院

思考の過程と飛躍の記録

場所的存在としての企業

道路交通法と同じくらい守られていないのが労働基準法だとよく言われます。実際、完全に労働基準法通りの経営を行ったとすると、使用者だけでなく労働者までもあまりの窮屈さに潰れてしまうのではないだろうか。労働法はそれだけ複雑怪奇な仕組みになっている。

 

最近話題になったビレッジジャパンの「クイズに正解しないと有給休暇を取らせない」問題。会社全体でそうなのではなく、いっかいの支店長が部下に対して行っていたありえない行為。

 

また、ブラック企業と言われる会社の経営者は労働法を知らないか、知っていても悪いことだと思っていない。むしろ、「うちには労働基準法は適用されない」という人がいるくらいであるから、自分が法律だと思っている節があります。

 

なぜそのような事態が発生するのか。

 

明治維新以前の日本の統治システムは、幕府の支配下にあっても藩として独立した国の存在があり、日本という国の中にたくさんの独立国家が成立していました。そのため藩によって方が違う、通貨の価値が違うということが起こり得ました。しかし、廃藩置県によって、全てが統一されます。

 

場所=村落共同体に基づいていた明治以前の日本と社会=国民国家に基づいた近代日本。現代は当然社会に基づいています。しかし、場所に基づいたあり方の方が歴史が長いため、そう簡単に移行できるものではありません。

 

場所に根付いた統治の形態は現代の日本では企業において生き続けているのではないか。村落共同体が場所としての機能を果しえなくなったため、企業が場所的な統治を担うようになったのではないか。

 

そのため、企業によってルールが違う、人々はみな自己紹介で企業名を言う、日々企業に所属している者として振る舞っている、経営者は自分がルールだと振る舞うこれは全て場所制の作用です。企業が社会化された存在であるならば、理念や経営ビジョンは違えども、労働基準法の完全適用、業界最低賃金、会計資料の統一などが実現しているはずです。

 

安倍首相も極めて場所的な人物ではないだろうか。自分の所属してる少数者集団が彼の全てであり、彼にとっての場所です。

 

しかし、場所が悪いわけではない。これらは全て場所制がマイナスに作用していることによって生じていることです。明治維新の罪の清算を現代人はしないといけない。それは、場所の民主化です。分かりやすく言うと、例えば家制度の民主化、徒弟制度の民主化幕藩体制民主化を本来は実現しないといけなかった。明治維新の罪は幕府の体制を破壊し尽くしたことにあります。

ホスピタリティ保育

 

サービスとして利益追求をすれば保育にはならない。

 

保育園と家庭での子どもは違い、保育園でできることが家庭でできないとしても、保育園でできるのだから本人にはそれをするだけの力はある。むしろ、家でできないということはそれだけ社会性を身に着けている=成長の証拠。

 

子どもにとって保育園は親にとっての会社と同じようなもの。保育士が意識しなくても、やはり子どもは頑張らざるを得ない。保育者自身が、子どもたちに頑張る保育をさせているのではないか。何かをさせる保育になっているのではないかと反芻する姿勢に非常に学ばされた。

 

親としては、家庭を子どもにとって、安らぎの場にしたい。

 

保育というのは利益を求めない非利設計であるため、損が出ないという一見矛盾した関係にある。保育で生み出される利益は、子どもの文化的成長や環境適応にある。これが、園の個性によって違ったものになるから尚のこと良い。サービスとしての利益追求型保育だと画一化された子どもしか生まれないことになる。故に保育は福祉であり、公的な支援が必要になる。

 

保育は福祉であり、子どもたちの感情を耕すこと。困難な生活背景を背負った子どもであっても、自分の気持ちを客観視し次にどうしたいかを自分で決めることできるようにすることが大切。

 

それは、そうせざるを得なかった背景に思いをはせられること。子どもにどう「させる」かではなく、子どもをどう「見る」かという肯定的な思考形態がある。これこそまさにホスピタリティである。

 

ホスピタリティとは忖度することでもなく、慮ることでもない。相手の自律性を尊重することにある。

学校化に抗して

僕はよく、教育に対して厳しすぎると指摘されます。基本的に僕の教育に対する考えの支えはイリイチの「脱学校論」なのでどうしてもそう思われても仕方ない。

しかし、どんなに学校とは政治装置であるといったところで学校をなくすことはできない。なぜなら、社会が学校(教育)を求めているからでです。言い方を変えれば、99.9%の人たちは学校のない社会を想像することすらできないからです。

社会そのものが学校を前提としているのです。これをイリイチ山本哲士さんは「社会の学校化」であると批判します。学校をなくすということは今の社会を全否定することにもなる。

だから、学校のない社会を考えることができないにしても、多くの人は社会を全否定することに危険性を本能的に察知し、嫌悪感を感じるのでしょう。

では、学校のない途上国の人々は不幸なのか。学校に行かなければ幸福にはなれないのかと言えばそんなことはない。でもそれは、学校というものの存在を知らない限りにおててです。知ってしまえば、学校/教育=先進国の基準の有無で自他を比較することになってしまうからです。

こうしなければいけないと考えて人々を善導することもまた学校化。結局のところ僕たちにできるのは、よりましな社会、よりましな平和、そしてよりましな暮らしを作ることでしかない。

保育を考えてみると、学校がいかに政治装置であるかが見えてきます。学校教育法(幼稚園)で先に議論されたことが、児童福祉法(保育園)に反映されるのが現行法上の仕組みです。福祉(社会保障)が先にあって後から教育とはならない。

以前、大学の保育学科に所属する専門家の講演を聴きましたが、この部分は「法律だから仕方ない」で片づけられてしまった。仕組みを変えるよりも、今ある仕組みの中でいかにに工夫するかだとされてしまう。

福祉が第一義とされる社会と教育が第一義とされる社会では人々の思考と行動には大きな違いが生まれる。そこを無視して安易に今の仕組みの中で工夫しましょうと言うことには意味ないのではないだろうか。
福祉=保育の基本原理は子どもが本来備えている力を最大限に発揮できるようにすることです。この原理がないと、教育は単なる押し付けに/強制/単一化になる。実際には保育と福祉はつながっている。箸のようなものです。箸が一本では使えないのと同じように、保育だけではいけないし教育だけでもいけない。

教育と福祉はちがう領域のように思われ、実際に違うということを前提にした法運営がされています。だから、学童保育のように行政による半ば見て見ぬふり状態が発生する。本当は教育も福祉の一部であり、出発点は福祉であるべき。

教育は福祉だと考えれば、過剰なまでの教育投資はされなくなるだろうし、福祉が先に立てば労働も大きく変わってくる。

日常に潜む不能化

ある小学校の前を通る際、交差点に毎朝交通安全のために高齢者もしくは教員が立っています。それ自体は問題ないのですが、僕がおかしいと感じるのは当該の生徒が横断するときにしか黄色い旗を持って横断者がいることを示さないことです。

生徒以外は完全にスルーです。その学校は制服がないので、制服を着用した別の学校の生徒が横断しているときも同じくスルーです。そのため、生徒が渡り切ればさっさと旗をどけるため、ドライバーも他の横断者も困惑し、かえって事故を誘発する危険事態を生んでいます。

また、昨年の出来事ですが、僕の目の前で車と自転車に乗った中学生が接触事故を起こしたことがあります。その時、交通安全のために立っている教員は、明らかに違う学校の生徒だったからスルーしました。

こういう社会事象はどう考えてもおかしい。当該の交通安全委員も教員も自分に課されたルールを遂行しているだけで、実際=事故を未然に防ぐことが見えなくなっている。

他校の生徒だから事故をしても知らないというのは、森友疑惑と同じでルールの範囲内で違法がまかり通るという構造と同じ心象です。自分は自分の所属する学校の生徒の安全を守ることが務めであり、それ以外は責任はないという心理です。

しかし、実際には自分の目の前で事故は起きているのであり、せめて駆け寄って、どうしたらいいかわからないでいた中学生を援助すべきだったはず。

こうした社会事象をおかしいと思い、何とか変えていかないとと本気で考える人はどれくらいいるだろうか。日常の何気ない出来事、それとも、そういう仕事なのだから仕方ないのだろうか。

こういう辺りに政治の腐敗がまかり通る原因があるように思えてならない。

佐藤雅彦著『新しい分かり方』を読了

巷には様々な情報で溢れています。ある対象物についてスマホで調べれば分からないことはありません。では、僕たちは対象の何を分かったのでしょうか。また、どうして分かったと言えるのでしょうか。
 この本は、自分がいかに「分かる」のかを客観的に知ることができます。謎かけのような写真や絵があり、その作品を鑑賞して著者の解説を読むという構成です。例えば、そこにはないと頭では理解していても、あるかのように体では感じてしまう。また、ある状態の前後を見ただけなのに、そこに至る過程を容易に想像することができる。このような分かる=認知のプロセスを体験できる画期的な本です。
 しかし、それだけで本は終わりません。解説によってある作品の意味が分かったとします。すると、分かったという爽快感を自然と感じます。では、分かった後に同じ作品を観たらどうなるか。分かる前と同じように見ることは不可能です。分かった=理解した=意味を知った自分の状態から逃れることは容易ではないことを実感するはずです。
 『新しい分かり方』に掲載されている作品からは、分かっていても分からない部分を感じざるを得ません。答えは分かるけど、答えに至るプロセスは分からないという分かり方もある。どんなに物事を緻密に理論化しても分からない部分がある(=プラチック)ことを体験できるすごすぎる本です。

 

新しい分かり方 佐藤雅彦|特設ページ|中央公論新社

 

 

佐藤卓著『塑する思考』を読了

とてもデザイナーが書いた本とは思えないくらい深い考察がされています。

デザイナーと言えども、モノの構造だけを考えていてはいけないのだと分かった。

題名にある「塑する」とは、塑性のことです。弾力性は衝撃をはね返し、元の形に戻ります。塑性は衝撃を吸収し、そのまま凹みます。粘土を想像してください。

世の中では、柔が剛を制すと言われるように、柔軟であることがよいこととされがちです。この時の、柔は弾力性を意味している場合がほとんど。

佐藤氏は塑性的なあり方を大切にしようと言います。学校教育の中でも、目まぐるしいスピードで動く社会にあっても自分を持つことを推奨する。そうではなく、流れの中で考え方やあり方を変えながら、生きていくことの肯定です。

優柔不断でどっちつかずなイメージですが、生物学的には僕たちの身体は昨日とは違う。それでも、昨日と同じ自分でいることができる。そんなあり方です。

また、佐藤氏は便利さをとことん疑ってかかります。『考えなければ気づかないではダメです。日常生活の中で、人はいちいち考えながら行動しているのではなく、物事に瞬間的に反応して、ほとんどの行為が無意識に起きている。そんな中に便利ウイルスはしたたかに入り込んでいるので、考えなければ、では、ぜったいに気づくわけがない』(P246)とし、常に便利さを疑う習慣を身につけることが大切と言います。

これは、文明批判をしているのではなく、便利すぎず不便すぎない=いかにもデザインしましたではいけない、というほどほどの部分を探し当てるデザイナーの視点から見いだされたものです。

 

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雇用身分

ある会合で、働き方を考えるワークショップについて話し合う。参加者の職種は様々だが、みんなこぞって生産性向上を訴える。非常に危機感を覚える。

そもそも、生産性とは何なのだろうか。生産性だけで評価をするなら、生産性の低い人は排除されてしまう。しかし、生産性の低い人の穴埋めを生産性の高い人がしているという現実があることも否定できない。

政府の働き方改革では、長時間労働の削減が謳われており、その手段として生産性を向上させることが必要だと言われる。

生産性の向上にはどう考えても限界がある。どんな人でも訓練によって一定程度の生産性を維持することはできる。そこからさらに生産性を高めようとすると、業務量を増やす、もしくは、新しい業務を与えることになると思う。それを積み重ねることが生産性の向上であり、業務が減ることは永遠とない。

普通の企業は、一部のハイ・パフォーマーとそうでない普通の労働者がいるが、すべてをゼロから始めるベンチャーなどは、ハイ・パフォーマーだけで組織を構成することが可能。しかし、例えば、保育園経営に対してベンチャー保育園と言わないように、すべての事業形態がベンチャーになるわけではない。

政府はそうした現実を知ってか知らずか、ハイ・パフォーマー(正社員)とそれ以外は非正規(流動型雇用形態)に二分する政策を進めている。それはさしずめ、森岡孝二氏の『雇用身分社会』のようなもので、日本では雇用形態が身分(階級)そのものになるということ。

そうした社会は、働き方に関しては非常に自由度の高いものになる。一つの職場に縛られる必要がないため、与えられた業務をこなしさえすれば後の時間は好きなことができる。無論、すべての人にそのような自由度の高い働き方ができるわけではない。セーフティネットがなければ、仕事のできる人にばかり仕事が集中する超競争社会になってしまう。

新自由主義的な経営観を持つ人たちがベーシック・インカムを提唱するのはこうした背景があるのではないだろうか。

これから増々労働者の働き方は社会とのつながりが希薄になっていくと思う。そこをどうやって変えるか。これは真剣に考えないといけない。労働者の労働または作り出すモノがいかに社会につながっているのか。その社会的意味とは何か。

この点を追求することがCSRやSDGs、CSVになる。賃金・労働条件だけを要求する労働運動ではもはや何も変えていけない。上記3点はすべて人権が基本であり、低賃金労働者や貧困を生み出さないことは企業の第一義の社会的責任である。

日本国内における劣悪な労働環境の氾濫は、人権の視点が欠如しているからであると同時に、『雇用身分』意識が醸成されているからに違いない。保守派がいう自己責任論では説明ができない。

日本では、ひとたび劣悪な労働に就いた時点で、その人の社会的身分が決まり、差別意識が生まれる。だからこそ、弱い立場にある労働者は団結しないといけないのだが、野党共闘に象徴されるように組織というのは自分の意思で選んで参加するものに変わってしまったことから、団結することも困難になっている。